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人は、誰しも心に虎を飼っている。 『李陵・山月記』
『李陵・山月記』  中島 敦 ★★★☆☆



中島敦は、幼時よりの漢学の教養と広範な読書から得た独自な近代的憂愁を加味して、知識人の宿命、孤独を唱えた作家で、三十三歳で歿した。
彼の不幸な作家生活は太平洋戦争のさなかに重なり、疑惑と恐怖に陥った自我は、古伝説や歴史に人間関係の諸相を物語化しつつ、異常な緊張感をもって芸術の高貴性を現出させた。
本書は中国の古典に取材した表題作ほか『名人伝』『弟子』を収録。(裏表紙より)







恐らく高校のころに授業で読んだ『山月記』がとても印象に残っていて、手に取った。

本書には4篇の作品が収められているが、いずれも中国の古典を題材としていることもあり、言葉が難しい。その分、注釈は充実しているのだが(注釈だけでなんと50ページある!)、巻末と本文を何度も行き来しなければならない。ストーリーにドラマ性のある『山月記』と『李陵』、寓話的な『名人伝』は比較的読みやすかったが、問答が中心となる(もちろんこれがあってこそ子路の最期が劇的になるのだが)『弟子』はかなり読むのに難儀した。



『山月記』は、人間・李徴が虎になってしまう、一言で言うと変身譚だ。
変身譚と言えば、カフカの『変身』が真っ先に浮かぶ。主人公・グレーゴルが朝目覚めると虫になっていた、という、あの有名な話である。どちらも、方向性は違うが残酷な結末であるという点では似ている。しかし、大きな違いの一つは、グレーゴルは自分が虫になったことを不思議にも思わずに受け入れており、逆に周囲の人が彼を拒絶するのに対し、李徴は自分が虎になったことに悶え苦しんでいる点だ。
また、グレーゴルが虫になった理由は何一つ触れられていないのに対し、李徴の場合は、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が自身を虎に変えたのだと述べている。この点が、私にとっては大きな魅力となっている。
カフカの『変身』を読んだ時には、「理不尽」という言葉しか思い浮かばなかった。だからこそ、周囲の人々の彼に対する反応にばかり目がいっていた。しかし、人間時代のグレーゴルがどんな人間であったかが垣間見える記述はわずかしかない。実際に彼の外見を虫に変えたものが彼の内面にあったとしたら、グレーゴルは死ぬまでそれに気付かなかったとも言える。
それに対し、李徴の場合は、人間時代の自分の心の中に「猛獣」がいて、それは最終的に人を人たらしめる何かを壊してしまうのだと気付いている。(気付いて、どれだけ悔いたところで結局人間には戻れないというのが、『変身』とは違った意味で「理不尽」ではあるのだが…)そして、「人間は誰でも猛獣使で」あるとも述べられている。この点で、『山月記』は人間存在の根本を問う物語であって、読みながら、誰もが自分の心の中の猛獣を自覚せずにはいられない。

特に『李陵』や『名人伝』は、読みながら物事を極めるとはどういうことか、誠を尽くし義を貫くとはどういうことか、礼儀とは何か、職責とは何か、など、生き方という点で多くを考えさせられた。
(個人的に、匈奴の単于が、「漢人の言う礼儀とは醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾ではないか」(p138)、と言っていたのが、大変痛快だった。美や礼といった物事に関しては、世の中はこのような人間で溢れているから。)
しかし、それはきっと私自身が普段からそのようなことを考えているからであり、誰もが感じることかといえば違うように思う。その点で、読む人すべての心の奥深くを抉る『山月記』には及ばない。

思春期に読んだこともあって色眼鏡もあるだろうが、やはり『山月記』が一番鋭く輝くものをもっているように思う。逆に言えば、それ以上の輝きをもつ作品に出逢うことを期待して本書を手に取ったので、残念でもあった。







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一冊の本を讀んで、他の本を讀まうといふ欲望を起こさせないやうな本は、善い本ではない。
かくしておのづから讀書に系統が出來てくる。讀書が系統化し始めるに至つて、ひとは眞に讀書し始めたといふことができる。
そのとき、あの一冊の本を開いたことは自分の心を開いたことであつたのである。
今や讀書の歴史は自分の生長の歴史になる。そのやうな書物においては、或ひは一年を隔てて、或ひは十年を隔てて、幾度となく、種々様々の機會に、我々はそれに還つてくるであらう。
そして我々はその邂逅が偶然でなつたことを信じるに至るのである。(三木清『読書論』)







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